Otonami Story
2025.1.15
森を守るお弁当箱を。“土に還る木の道具”をつくり続ける木箱職人の挑戦。
Interviewee
箱屋常吉 5代目当主 笹井雅生さん
1868(明治元)年に大阪で創業し、国産杉を使った木製品をつくり続けてきた「箱屋常吉」。素材にこだわる木箱屋として、これまで多くの老舗料亭や菓子司で重宝されてきました。なかでも、塗装をせず天然の木の特徴を活かしたお弁当箱は、中に入れたごはんをふっくらおいしく保ちます。
大量生産・大量消費時代の波にも負けず、昔ながらの“おひつのようなお弁当箱”を復活させたのが、5代目当主・笹井雅生さん。日本の自然の恵みである杉を余すことなく丁寧に使いながら、今日も誰かの大切なお弁当箱をつくっています。
木箱職人であると同時に、森の守り人でもある笹井さん。一つひとつの木材を見つめる眼差しには、日本の自然への敬意が現れています。お弁当箱を通して、木のある暮らしを提供してきた笹井さんの挑戦と、未来への希望に満ちたStoryに迫ります。
杉のお弁当箱に入れたおかずが大好きだった少年時代
商業都市として栄え、かつては水運の要所だった大阪の江戸堀に、1868(明治元)年「箱屋の常吉」を略した木箱屋「箱常」が誕生しました。創業したのは、店名にもその名を冠した笹井常吉さんです。150年以上の長い歴史のなかで、有名料亭の料理箱や老舗昆布店の贈答箱、菓子司の菓子箱など、あらゆる木箱を手がけてきました。
「僕が生まれ育ったのは小さな工場でした。1階と2階に作業場があり、その隅っこで家族が暮らしていたんです。職人がトンカチを叩く音が家中に響き渡り、床に落ちた木の端材がおもちゃ代わりでした」。懐かしそうに話すのは、箱屋常吉5代目当主、笹井雅生さん。幼少の頃から、当たり前のように木に触れて育ちました。
子ども時代に使っていたお弁当箱は、もちろん杉の木箱。周りの友人が持っているキャラクターが描かれたアルミ製のお弁当箱が羨ましくてたまらなかったといいます。「木箱なんておじさんくさくて嫌だったんです」と笑う笹井さん。しかし、杉のお弁当箱が持つ力に幼いながらも気づいていたそうです。「僕のお弁当は、遠くの山に遠足に行ったときでもものすごくおいしかったんですよ。母親の料理でいちばんの好物が、お弁当のおかずでした」。
杉のお弁当箱を気に入っていたとはいえ、友人が持つアルミ製のお弁当箱への憧れや悔しさは消え失せることはありませんでした。それらを昇華させるように、箱屋常吉ではデザイン性のある商品を展開しています。「木箱というと無地やシックなものが多いですが、僕は気分が上がるようなデザインを心がけています。手間はかかりますが、お客様からの要望がない限り無地はつくりません」。幼少期の記憶が、今の製品づくりへのこだわりにつながっています。
大量生産をやめ、国産杉のお弁当箱づくりに回帰
もともと、家業を継ぐつもりはなかったという笹井さん。パイロットを目指し、大学を休学して単身アメリカに渡りました。しかし、惜しくも夢は叶わず日本に帰国。神戸や金沢で4年ほど企業勤めをしていたそうです。そんな矢先、お母様が病に倒れ実家に戻らざるを得ない状況に。そのときにはじめて、工場が火の車であることを目の当たりにしました。
工場の窮地を救うべく、4代目であるお父様の背中を頼りに、20代後半でこの業界に足を踏み入れた笹井さん。ところが、時代は大量生産・大量消費の真っ只中。受注の多くは、中国産の安価な木材を使った量産仕事でした。「中国に工場を持ったこともありましたが、現地の人に機械を騙し取られたりして……。自分の仕事になんのおもしろみも感じず、自暴自棄になっていました」と、当時の苦悩を語ります。
いよいよ廃業か、という危機に追い込まれたとき、笹井さんはあることを思い出します。それは、幼い頃に食べたお弁当の味。「あの杉のお弁当箱をもう一度よみがえらせようと思ったんです。1円でも安く売ろうとする世の中の流れが間違っているのではないか。使い捨てにされる箱ではなく、ずっと手元に置いてもらえて、記憶に残る箱をつくろうと決心しました」。心に刻まれた思い出が、廃業寸前の工場を救う一筋の光となりました。
木箱のつくり手として「箱屋」と名乗ることを決意
大量生産の製造をする傍らで、国産杉のお弁当箱を細々とつくりはじめた笹井さん。「父が4代目を継いでからは量産仕事ばかりだったので、長く愛用されるような、想いがこもった箱のつくりかたがわからず、最初は途方に暮れました」。その後、機械はすべて自社で特注し、一新を図ったといいます。
笹井さんは、5年にも及ぶ試行錯誤の末、国産杉のお弁当箱を展開するプライベートブランド「箱屋常吉」を立ち上げました。ブランド名に込めた想いを聞くと、「『箱屋』と自信を持って名乗りたかった」と話します。
「初代の常吉は、大阪ではじめて木箱屋を創業した人。その後、彼の元で育ったお弟子さんがのれん分けをしたことで、大阪にはたくさんの箱屋ができました。しかし、今や『箱屋って何?』という時代に。世の中には多くの木箱があるのに、そのつくり手の存在は認識されていません。僕はもう一度、『箱屋』という職業と言葉をこの大阪から広めたいと思ったんです」。
継続させるために、時代と共に変化していく
職人として生きる覚悟が定まったのは、亡くなる直前まで仕事をしていたお父様の姿を見たときだったそう。「父にとって仕事は呼吸するのと一緒だったんです。仕事をしないとむしろ死ぬくらいの感覚にならなければ、職人ではないのだと痛感しました」。寡黙だったお父様の言葉なき教えが、笹井さんの職人人生を導いてくれました。
箱屋常吉では、イラストレーターと共創したお弁当箱をはじめ、バッグやスピーカー、豆行灯といった新しい商品も展開しています。明治時代から続く老舗でありながら、変化を恐れず喜々として新たな試みをする姿勢には、アメリカでの経験が生きていると笹井さんはいいます。
「変わり続けなければ維持できないという感覚を、アメリカで身につけることができました。初代が今の箱屋常吉を見たらなんて言うかわかりませんけど、変化し続けることが継続につながるのだと僕は思います」。箱屋常吉の商品には、初代から受け継いだ伝統技術だけでなく、笹井さんが歩んできた人生のエッセンスが反映されているのです。
国産杉で木製品をつくり、日本の森を守る
箱屋常吉のこだわりのひとつは、国産の杉材を使って木製品をつくること。日本は国土の7割が森林であるため資源は豊富に見えます。しかし現状は、林業における深刻な労働力不足もあり、木材の6割以上は海外からの輸入品。近年では木材の価格が高騰する「ウッドショック」が起きています。「自国の豊富な天然資源を使わず、輸入に頼っているのはもったいないですよね」と笹井さん。そこで、木に恵まれた日本の豊かな環境を伝え、国産の木材を使ってもらうために立ち上げたのが「木の国日本プロジェクト」です。
「木の自給率が高まれば、林業に興味を持つ人が増え、後継者問題が解決していくかもしれません。そうすれば日本の森は健全になり、おいしい水が流れ、おいしい食材が育つはずです」。笹井さんの活動は木材製品を広めるだけにとどまりません。目指すのは、先人たちが残してくれた森を守り、次世代につなぐこと。「日本の子どもたち全員が、杉のお弁当箱を持てるようにしたいです。僕みたいに、お弁当のおかずがいちばんの好物と言ってもらえたら嬉しいですね」と未来を見つめてほほえみます。
木のぬくもりに触れ、木の心地よさを感じる体験を
国産杉のお弁当箱をはじめ、様々な木製品をつくる笹井さんの根底には、“木箱は生きている”という考え方があります。木には個性があり、それぞれの人生がある。それは、一つひとつの木材と真剣に向き合い、触れて、対話するなかではじめてわかってくること。どんな場所でどんな風に生きたかを知ったうえで選んだ木材には、自然と愛おしさを感じるそう。
「昨今注目されている丁寧な暮らしや、ミニマルな生活を無理して意識せずとも、ものを大切に長く使うことで“自然と丁寧に暮らしている”。Otonamiの体験を通じてそんな感覚になってもらえたら」と笹井さん。木に触れ、森を感じ、世界にひとつだけのお弁当箱をつくることをきっかけに、暮らしに寄り添う木の心地良さを感じてみませんか。
箱屋常吉
1868(明治元)年、初代・笹井常吉氏が大阪の江戸堀で創業した木箱屋。有名料亭の料理箱や菓子司の菓子箱といった杉箱を手がけてきた。無垢無塗装の国産杉を用いたおひつのような“呼吸するお弁当箱”は、機能性や使用感だけでなく、バラエティ豊かな形と遊び心があるデザインも好評。国産杉を用いたインテリア製品やバッグを考案するなどの新しい試みにも注目が集まる。
MAP
大阪府大阪市中央区安堂寺町1-4-21 箱家−hakoYa−