Otonami Story
2023.4.20
伝統は革新と共にある。“味・腕・遊び心”をモットーに和食を未来へ伝えゆく。
Interviewee
賛否両論 店主 笠原将弘さん
東京・恵比寿の駅から少し歩いた静かな住宅地にある日本料理店「賛否両論」。オープン以来なかなか予約の取れない名店となり、月初めの予約開始日には翌月の予約がほぼ埋まってしまうほどの人気ぶりです。
「本格的な日本料理を、手ごろな価格で多くの人に楽しんでほしい」と語るのは、店主の笠原将弘さん。かつて若い世代には、「古いもの」「難しいもの」として敬遠されがちだった和食。賛否両論は、和食の魅力を世に伝え、幅広い世代に和食の良さを広めてきた“和食の発信源”であり、店主である笠原さんは、日本料理界を牽引してきた中心人物の一人といえます。
日本料理と共に歩んできた長い道のりには、多くのファンに支持される理由がありました。和食の魅力と豊かさを伝え続ける笠原さんの“story”に迫ります。
父の背中を見て育ち、人情に触れた子ども時代
東京・武蔵小山の下町で、焼き鳥店「とり将」を営むご両親の元に生まれた笠原さん。店舗の2階に一家が暮らす住居があり、学校から帰ると店で仕込みをしているお父様の姿を眺めるのが日課だったといいます。
「焼き鳥のつくねを刺したり、おつかいに行ったりと、小さい頃から手伝いをしていました」と語る笠原さん。宿題も店の片隅でするのが日常で、常連客に可愛がられて育ちました。子どもながらに大人の世界の人間模様を感じ、飲食業でお金を稼ぐことの大変さを目の当たりにしていたのだそうです。
「知らず知らずのうちに、旬を感じる“本物の味”で育ちましたね。手間暇かけられた料理は余り物であってもおいしかったことを覚えています」。
中学生の頃に笠原家にやってきた、もらいもののオーブンレンジ。他にスペースがないからと笠原さんの部屋に置かれたのがきっかけで、レシピ本を見てはローストチキンを作ったり本格的なケーキを焼いたり、自分なりに料理を始めたそう。こうした食にまつわる原体験こそ、笠原さんの遊び心と創造性に満ちた日本料理の源泉となっています。
世界の舞台で戦える“和食の日本代表”を目指して
人生の転機は、将来を本格的に考え出した高校3年生の時。パティシエの世界一を決める大会で、日本チームがフランスと互角に戦っているのをテレビで観て、「日本も食で世界と渡り合えるんだ」と強く心を打たれたのだそうです。
自分も世界を舞台に活躍するパティシエになりたいと、すぐさまお父様に相談。すると、「パティシエのつてはないけれど、日本料理を学ぶなら最高の店がある」との答えが。「それなら和食で世界に行こう」と、日本料理の道を歩むことを決めます。「軽はずみな言動と思われるかもしれませんが、料理の種類ではなく、日本代表として世界と戦いたいと思ったんです」と、当時の思いを振り返る笠原さん。料理に情熱を傾けるパティシエの姿に“男のロマン”を感じ、憧れを抱いたのだといいます。
窮地を救った遊び心と伝統の技
老舗日本料理店「正月屋 吉兆」で修行を積み重ねて9年経った頃、お父様が病に倒れ、急きょ焼き鳥店を継ぐことに。料理人としての技を磨いてきたといえども、お店の経営ははじめて。失敗の連続で次第に常連客の足は遠のき、新規のお客様も減っていきました。そうなれば、良い食材を買えず鮮度を保つこともままなりません。だんだんと気持ちが追い込まれていく笠原さんでしたが、「これではいけない」と奮起し、持ち味である遊び心と修行時代に培った確かな日本料理の腕で窮地を脱します。
取りかかったのはメニューのリニューアル。焼き鳥店では珍しい「玉葱のタルト」や「人参のムース」などの斬新なメニューを加え、若い世代にも喜んでもらえるよう工夫を凝らしました。時間を見つけてはフレンチや中華を学び、あらゆる方法を試して再起を図ったのです。
次第に「面白い店がある」と話題となり、訪れた人がまた人を連れて来てくれるように。一時は閑散としていた下町の焼き鳥店が、予約で満席になるほどの繁盛店として息を吹き返しました。
「当時は予約が入ればコース料理も出していました」と笠原さん。自分の料理に自信が持てるようになった頃、周囲からの声もあり、自分の店を持つ夢を描きはじめました。まさにそんな時、常連客から聞いたかつてのお父様の言葉が大きな後押しとなります。「あいつにはちゃんと自分の店を持ってもらいたい。そこに食べに行くのが夢だ」。
自分のやり方を好きだと思ってくれる人に来てもらいたい
2014年、恵比寿の閑静な住宅地にひっそりと「賛否両論」をオープン。笠原さんが32歳の時のことでした。「自分自身が行きたいと思えるお店を作れれば、きっとお客様に喜んでもらえる。それが万人に賛同してもらえなくとも、自分の料理を好きだと言ってくれるお客様で満席にしたい」。店名にはそんな想いを込めました。
目指したのは、若い世代にも楽しんでもらえる「気おくれしない和食店」。和食になじみの薄い人にも気軽に来てもらいたいと、あえておしながきは作らず、旬の食材をふんだんに使用した「おまかせコース」一本に絞ることに。お店は一躍評判を呼び、瞬く間に予約の取れない人気店へと成長しました。連日満席の有名店となり、今なおその人気は続いています。
いつか叶えたい、和食の日本代表になる夢
料理人としてのキャリアが30年以上となった今、店主として腕を振るうことはもちろん、雑誌や料理本、テレビやラジオと様々な媒体を通して和食の魅力を伝えている笠原さん。2号店である名古屋店も、本店の倍以上の席数があるにもかかわらず、連日満席と好調を博しています。
「この先もいろんな店をやってみたい。アイデアならいくらでも湧いてくるんです」と笠原さん。「料理の道を進むきっかけとなった“和食の日本代表”になる夢は、いまだに諦めていません」。そう言って、少年のように目を輝かせます。
「日本料理店をやっていて幸せだと感じるのは、お客様の人生に関われること。結婚記念日や誕生日、お食い初めや法事など、大切な人生の節目で料理を通じて寄り添うことができるのです」。伝統を重んじながらも時代の変化に合わせて、新鮮な驚きに満ちた日本料理を届けたい。描いた夢を原動力に、笠原さんは今日も“腕・舌・遊び心”で、和食の世界を表現し続けます。
賛否両論
料理人・笠原将弘氏が2004年にオープンした日本料理店。あえて料理のおしながきを用意せず、季節感あふれる食材をふんだんに使った「おまかせコース」のみを提供する。和食の伝統を重んじながらも遊び心が光る品々は多世代にファンを持ち、予約の取りづらい名店として知られる。
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