Otonami Story

2023.9.26

タカラジェンヌから日本舞踊家へ。伝えたい日本の伝統文化の魅力。

Interviewee

日本舞踊家 白鳥佑佳さん

「日本舞踊も伝統文化も、決して堅苦しいものではありません。人や物を慈しむ日本人の心を表現する、とても自然で美しいものなんですよ」。にこやかにそう語るのは、元タカラジェンヌで花柳流師範でもある日本舞踊家・白鳥佑佳さん。自ら舞台に立つ傍ら、日本舞踊教室「薫乃会」や、日本の伝統文化を学ぶ「桜花村塾」、NPO法人「日本人のアイデンティティを育む会」を主宰し、各地でワークショップや講演を行うなど国内外で精力的に活動を続けています。

宝塚歌劇団で和洋の舞台芸能を追求し、華々しく活躍した白鳥さんが、退団後に選んだ日本舞踊家としての道。幅広く芸能を嗜むなかで、あらためて惹かれた日本舞踊の魅力とは。舞台芸能と日本文化をこよなく愛し、後世に伝える、白鳥さんの“Story”に迫ります。

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3歳で出会った日本舞踊が、舞台の醍醐味を教えてくれた

幼い頃から、音楽に合わせて踊るのが好きだったという白鳥さん。お父さまが趣味にしていた8ミリビデオを見返すと、レコードから流れるリズムにのって跳びまわる幼少期の白鳥さんの姿が残っているそうです。

そんな白鳥さんが本格的な踊りと出会ったのは3歳の頃、日本舞踊を嗜むお母さまに連れられて、一門の新年会に行った時のこと。披露されるお姉さま方の踊りを見て、「私も踊ってみたい」と、すぐに夢中になったといいます。

一瞬で周囲の人の目を奪う、白鳥さんのたおやかな立ち居振る舞い

白鳥さんはほどなく花柳流門下に入り、6歳で初舞台を飾ります。真っ暗な鳥屋口から、長い花道を通って眩しい舞台に登場したこと。芝居の台詞に、観客から笑いが起きたこと。そして舞台を終えたあと、楽屋で化粧を落としてお風呂に入った時のほっとした気持ち……。舞台に上がる緊張感と達成感の心地良さが、心に深く刻まれました。

首席合格した宝塚音楽学校での、厳しい鍛錬の日々

中学時代の白鳥さんは、日本舞踊を続けながらピアノを習い、いつかは表現者としての道を歩みたいと考えていました。しかし、手が小さかったためピアノでプロを目指すのは難しいと判断した音楽の先生は、白鳥さんに宝塚音楽学校への受験を勧めます。

タカラジェンヌを目指すことになるとはそれまで想像もしていなかったそうですが、歌も踊りも音楽も好きな白鳥さんにとってはまさにうってつけの進路でした。日本舞踊やピアノの稽古で培った音楽的な素養を武器に、白鳥さんは首席で合格します。

長唄『傾城』を踊る白鳥さん。舞台のことを語る白鳥さんからは、踊りや舞台芸能への熱い想いがひしひしと伝わる

首席で入学した白鳥さんを待っていたのは、周囲からの絶え間ない期待と重圧でした。並び順も役割も、すべてが成績順で決まる世界。年上の同級生も多いなかでまとめ役を任されるなど、厳しい学校生活が続きます。

押しつぶされそうな日々を支えたのは、「すべては舞台で報われる」という強い想いでした。2年間ほとんど私語を慎んで芸を磨き、迎えた初舞台。「3,000人の観客からいただいた波のように押し寄せる拍手の音は、今も忘れられません」と、白鳥さんは懐かしそうに語ります。

タカラジェンヌとしての華々しい日々と、表現者としてのジレンマ

宝塚歌劇団入団後は、人気テレビ番組『ザ・タカラヅカ』に出演するグループ「バンビーズ」のメンバーとして活躍しながら、モデルやナレーション、CMの仕事もこなすなど、目まぐるしい日々が続きます。それでも、和洋や時代を問わず様々な舞台芸能を追求する日々は、忙しくも楽しかったといいます。

お辞儀ひとつをとっても、心・技・体すべてが揃った所作は美しく心に響く

華々しいスター街道を歩んでいた白鳥さん。しかし当時、華やかなメイクをしてミュージカルのようないわゆる“洋物”を演じる自分のことが、実はあまり好きではなかったといいます。一方で、日本舞踊をベースにしたショーでは、日本人らしい立ち居振る舞いやメイクに心地良さを感じていたのだとか。

入団から数年が経った頃、ブロードウェイの演出家が振付をする舞台に出演した白鳥さんは、本場のミュージカルの空気感に衝撃を受けました。それは国の文化に裏打ちされた、本物の迫力でした。公演後に燃え尽きたような思いになった白鳥さんは、自分を見つめ直すために宝塚歌劇団からの退団を決意します。

原点に立ち返り、あらためて魅了された日本舞踊の世界

退団後、何をして生きていこうかと考えた時、心に浮かんできたのは日本舞踊でした。幼少期からずっとそばにあった日本舞踊は、日本人らしい美しさを自然に体現できる、表現者として最良の道に思えたのです。

美しい姿勢や所作は日本舞踊をはじめとした和洋様々な舞台芸能で培った

花柳流師範の資格を取るため稽古を重ねていた1995年の早春、阪神淡路大震災が起こりました。神戸に住んでいた白鳥さんは、めちゃくちゃになった部屋から避難。踊りの譜面と音源、そして小銭入れだけを握りしめて乗った車の窓からは、がれきの山となった神戸の街が見えました。

「目の前の悲惨な状況と、脳裏に広がる美しい踊りの世界との落差に、なんだか不思議な気持ちになったことを覚えています」。そんな状況下でも、踊り続けることにどこか宿命のようなものを感じたといいます。

後世に伝えたい、日本文化の美しさと面白さ

晴れて師範となった白鳥さん。はじめは弟子を取らず、自分の表現を追求することに力を注いでいました。しかし次第に、日本舞踊と現代に生きる人との距離感にもどかしさを感じるようになります。現代では非日常体験のようになりつつある、日本舞踊や茶道、華道といった伝統文化も、かつては日常と共にあり、暮らしの中で自然に身につく日本人らしさの源だったのです。

Otonamiのプランでは、ランチコースをいただきながら会食の流れに沿った所作指導を受けられる

「人に教えるなんておこがましいと思っていましたが、日本舞踊を通して知った伝統文化の魅力を伝える、次世代にパスを回すような役割なら私にもできます。今では、表現者であり続けることと、後世に伝える役割を担うことは、どちらも私の使命だと感じています」。

「今の世に活かせることを伝えていきたい」と語る白鳥さんが手がける講座は、マニュアルどおりには進みません。所作やマナーを教える時に伝えるのは、「心・技・体」を揃えることの大切さ。立ち居振る舞いや箸づかいなど一つひとつの動きには、人や物を尊重する心が込められています。所作はテクニックであり、身につけるには鍛錬が必要ですが、形だけを真似しても、そこに想いがなければ伝わらないのです。

普段の暮らしに応用できるよう、所作やマナーの元となる想いや考え方を丁寧に伝えている

白鳥さんが思い描くのは、日本人が日本文化を日常に取り戻す未来。伝統文化と現実社会とをつなぐかけ橋として奔走する日々は、まだまだ続きそうです。

日本舞踊家・白鳥佑佳

元タカラジェンヌの日本舞踊家。花柳流師範として国内外で公演を行う。日本舞踊教室「薫乃会」や、日本の伝統文化を学ぶ「桜花村塾」などを主宰し、各所で講演やワークショップを開催するなど、次世代に日本文化を伝承する活動をライフワークとする。2005(平成17)年にNPO法人日本人のアイデンティティを育む会・紫薫子の会を設立し、日本舞踊のみならず、 茶道・落語・日本舞踊・着付けなど日本文化体験教室やセミナーを行う。2014(平成26)年、「東久邇宮文化褒賞」を受賞。

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