Otonami Story
2025.1.6
使い手に想いを寄せて。500余年の歴史を礎に、品質を追求する現代の茶筅師。
Interviewee
和北堂 茶筅師 谷村丹後さん
奈良県生駒市ののどかな山間にある高山。この里にあるたった16軒の家で、伝統工芸品「高山茶筅」はつくられています。谷村家は江戸幕府から「丹後」の名前を与えられ、現在は20代目の谷村丹後さんへと一子相伝の技が引き継がれています。
「使いやすく、かつ丈夫」として名高い谷村家の茶筅。穂先のしなやかな弾力性と、丈夫さという相反する要素をバランスよく両立する技術は、500年以上にわたって培われ伝えられてきたもの。谷村さんは自らを「道具をつくる人」と称しますが、その手から生み出される茶筅は芸術作品そのものです。
代用できない唯一無二の茶道具であり、その質によりお茶のおいしさを大きく左右する茶筅。しかし茶道では会記に記されることがなく、末席の扱いです。品質の向上を追い求めながら、「茶筅の価値を上げ、より身近なものとして多くの人に親しんでほしい」と願い、発信を続ける谷村さんの“Story”に迫ります。
500余年の歴史を受け継ぐ茶筅師・谷村丹後
国産茶筅の産地として知られる奈良県生駒市高山。室町時代後期、この地で高山茶筅は誕生しました。茶の湯の祖とされる茶人・村田珠光の依頼から、大和鷹山城城主の次男・高山宗砌(そうぜい)が茶筅を創案。茶筅づくりの技法は鷹山家の家臣に伝授され、鷹山家没落後に地名も「鷹山」から「高山」へと変わり、本格的に茶筅づくりが生業になりました。その後、茶道の隆盛と共に茶筅の需要も増え、豊臣秀吉や徳川幕府に保護されたと伝わります。
江戸時代には徳川将軍御用達茶筅師として13の家が名前を賜り、谷村家は「丹後」の名で記録されました。現存する3家16軒で、今も国産茶筅の9割以上を手がけています。谷村家はこれまで将軍家以外にも、禁裏仙洞御所や公家、諸大名、寺院にも茶筅を納めてきた名家のひとつです。
高山茶筅の伝統技術を絶やさないため、後継者の道へ
20代目の谷村丹後さんは1964(昭和39)年、谷村家の次男として生まれました。高山茶筅は一子相伝で伝えられてきた技術で、口伝にて長男が継ぐのが慣例でしたが、昭和時代に入った頃から少しずつ緩やかになっていったとか。お兄さんも谷村さん自身も、両親から継いでほしいと言われたことはありませんでした。
大学を卒業して大阪の企業に勤め、その後輸入雑貨店を経営していた20代後半の頃、ふと故郷のことを考えたという谷村さん。「不自由なく育ててもらい、家業をこのままほったらかしにしておくのは申し訳ないと、社会を知って思いました。それに、親も喜ぶだろうな、という思いもありました」。お兄さまも別の道に進んでいたため、20代目を目指すことを決意します。
本格的に修業に入ったのは29歳の頃。道具一式を揃えてお父さまの隣で仕事を始めました。幼い頃から家業と密着した生活を送り、継ぐ気はなくてもおじいさまやお父さまが茶筅づくりに励む姿を見て育ったため「すぐできるのではと思っていましたが、現実はうまくいきませんでした。『竹の指頭(しとう)芸術』といわれる茶筅は、経験がものをいう世界。いかに多くの竹に触れるかが大事で、近道はありませんでした」。
茶筅は分業制の産業ですが、谷村さんは当主であるがゆえにすべての工程をマスターする必要がありました。一つひとつ丁寧に教えてもらえることはなく、目で見て盗むのが主な修業。「はじめは竹から出る音が父と同じようにはならず、苦労しました」と振り返ります。基本の全工程を習得するまでに約10年かかりました。「その後は修業の応用編に入ったという感覚ですね。茶筅づくりに終わりはなく、今も技術を磨き続けています」。
開かれた時代の茶筅師として活躍の場を広げる
茶筅師になる前に他の業界に身を置いた谷村さん。その経験が大いに今に活きていると話します。「家の仕事や高山という地域を客観的に見ることができました。もしもすぐに家業を継いでいたら、比べるものがなく不満を抱いていたのではないかと思います。外の世界を知っているからこそ、自分が恵まれた環境にあることに気がつきました」。
かつては秘伝の技術だった茶筅づくり。谷村さんのおじいさまの時代までは決して人に見せなかったそうですが、茶筅の価値を上げるべく、1960(昭和35)年頃より少しずつ情報を公開していきました。茶道具の中でも茶筅は消耗品と見なされ、茶会の会記に記されることがありません。しかしほぼすべての工程が繊細な手作業で、茶道の流派によっても使う竹や形、糸の色などが異なります。その技術の重要性や魅力を伝えるために、谷村さんも一般の方に向けた見学会や茶筅づくり体験に力を入れています。
「自分としては普通に仕事をしているのですが、お客様の前で実演すると驚いてもらえるんです。新鮮な反応が返ってくるのが楽しいですし、仕事を見せて喜んでもらえるなんて嬉しいことです。誰に見せることもなく、黙々と茶筅をつくるのが当然の祖父の頃には考えられないことで、求めてくれる人がいることをありがたく感じています」。
使い手の立場に立ってこそできる良いものづくり
「茶筅師は芸術家ではなく、道具をつくる者」という谷村さんですが、つくり手であると同時に、使い手としての視点も大切にしています。「実際に使ってみないと良いものがつくれないのではと思い、茶道を習うことにしました。日本で流通している茶筅の約7割が安価な中国製ですが、高山茶筅の品質には及びません。それは、お茶を点てたことのない人が見よう見まねでつくっているからです」。
このような考えのもと、2年ほど裏千家で茶道の稽古を経験した谷村さん。さらに、お茶好きだったおばあさまがつくった離れの茶室を活用するようになりました。Otonamiの体験でも茶筅づくりの後、オプション(有料)で谷村さんのお点前を受け、きめ細かい抹茶を点てる方法を教わることができます。
以前は国内の茶道に携わる人が顧客の中心でしたが、「MATCHAブーム」も手伝って、お客様の年齢層は若く、また国外へと広がっています。それでも、茶筅の造形や製造方法は約500年の間ほとんど変わっていないのだとか。
「茶筅は昔から、丈夫でしなやかであることに加え、快適に抹茶が泡立つものが良いとされます。外国人でも茶筅を使う方が増えていますが、海外で流通しているものの多くは中国製。日本製の高品質な茶筅を使っていただき、良い茶筅で点てるお茶のおいしさを知ってもらうためにも、茶筅の本質である使いやすさを追求し続けたい」。高山茶筅を使う喜びと、お茶の魅力を伝える20代目の挑戦は続きます。
和北堂 谷村丹後
徳川将軍家御用達茶筅師として「丹後」の名を賜り、500年以上の歴史を守り伝えている谷村家。2006年に20代目を襲名した谷村丹後氏は、裏千家と武者小路千家の茶筅師として活躍。中田英寿氏が主宰する、日本の伝統工芸の継承・発展の促進を目的とした「REVALUE NIPPON PROJECT CHARITY GALA 2013 with GUCCI」にて、竹がテーマの作品制作に参加。2015年には経済産業大臣指定伝統工芸士に認定。茶筅の魅力を多くの人に伝えるため。茶筅づくりの体験会や工房見学会を開催し、一子相伝の技を一般公開している。
MAP
奈良県生駒市高山町5964