江戸時代にルーツを持つ「ビラ」から発展した日本独自の書体
花街だった頃の風情を残し、通好みの店が軒を連ねる荒木町・車力門通り。落ち着いた雰囲気の路地に、日本文化サロン「穏の座」があります。本体験は、昼間はカフェ、夜は紹介制のバーとして多くの人が集まるここ穏の座の座敷を貸し切り、日本の伝統文字である「寄席文字」を学ぶOtonami限定プラン。寄席の看板に書かれている出演者名など、独特の筆致が目を引く寄席文字は、江戸時代から始まった集客用のビラに使われていた「ビラ字」がその起源です。
「穏の座」の座敷を舞台に、縁起の良い伝統文字「寄席文字」を学ぶ橘流の家元・橘右近は、もともとは噺家でビラ字が身近にありました。文字も好きだった右近は、その文字に魅了され、技を見覚え習得します。さらに、より合理的な筆法・ルールを体系づけることによって、洗練された形に完成させました。それが今に伝わる寄席文字です。現在、寄席文字を正統に伝承しているのは橘流のみ。本体験では、橘流寄席文字一門の寄席文字職人・橘さつき氏が講師を務めます。
漢字の一から九には、寄席文字の基本的な筆法がすべて入っているそうさつき氏は大学卒業後、印刷会社に勤めていた時に訪れたイベントではじめて落語に出会い、以来寄席や落語会へと足を運ぶように。その数年後、荒川区が手がける「匠育成事業」に応募し、師匠である橘右橘(たちばなうきつ)氏に師事することとなりました。2017年に右橘氏の“橘(きつ)”の字から「さつき」という名をもらい、橘流寄席文字一門の女性寄席文字職人として活躍の幅を広げています。
寄席文字職人の橘さつき氏。師匠・右橘氏の言葉を借りると「寄席文字を書くのは絵を描く感覚に近い」のだとか書体に決まった型はあるものの、「筆の勢いや右上がりの角度など、にじみ出る個性はやはり人それぞれ」。さつき氏の書く文字には明るい人柄が表れ、力強さとやわらかさを兼ね備えています。
墨の香りに包まれ、心落ち着くひととき
座敷に入ると、かすかに墨の香りがふわり。まずは、さつき氏が寄席文字の特徴を解説しつつ、実演して見せてくれます。「墨をたっぷりつけて、根元まで使って太く書きます」と筆を走らせる手さばきは、丁寧でありながら極めて大胆。緊張感とリラックスした空気が絶妙なバランスで同居しているようです。
根元まで紙に付け、筆の腹を使って書くことが寄席文字らしい太さを出すコツ寄席文字は、歌舞伎文字(勘亭流)、相撲文字(根岸流)、千社文字などと共に「江戸文字」と呼ばれる伝統文字のひとつ。これらは互いに似ていますが、それぞれの世界を感じさせる特徴があり、よく見ると違います。寄席文字はまろやかな線で構成されながら、とめやはねの潔い処理によって余白の美しさが際立つ仕上がり。右上がりの筆勢には、「客席が埋まり、昨日よりも今日、今日よりも明日と右肩上がりに繁盛するように」という思いも込められています。
本格的な道具を使った寄席文字体験
いよいよ筆を取り、実際に手を動かす時間。寄席文字専用に作られた、穂先の短い筆を使って体験します。横棒と縦棒、漢字の一から九など、さつき氏が書いた手本を見ながら基本的な筆法を練習。ちなみに、書道では二度書きは良くないとされますが、寄席文字は仕上がりの美しさが重視されるので、そのための修正、補筆は良しとされます。
寄席文字は、形状だけでなく書き順も独特なものが多い「漢数字の一から九には、とめ、はね、はらいを含め、寄席文字の基本となる筆法がすべて入っています」とさつき氏。この要領をつかめば、いろいろな字を書く時に応用できるのだそうです。自分の手で書いてみることで独特の文字構造を実感し、ますます関心が深まるばかり。「頭で考えることと手を動かすこと。それを同時にフル回転で行うことが書く楽しさ」と話します。
「筆を紙に置くと同時に進行方向にひねると、きれいな線になります」と具体的なアドバイスもたったひと文字に込める思い
体験の最後には好きな字をひとつモチーフに選び、作品をつくります。縁起文字なので「福」「夢」のような前向きな意味合いをもつ字がおすすめ。画数が多いと難しくなりますが、さつき氏がその場で手本を書いてくれるのでご安心を。苦手なポイントは、本番に挑む前に練習用紙で繰り返し練習しましょう。
寄席文字の「夢」。特に「夕」の部分が、普通の漢字とは字体も書き順も異なる寄席文字ならでは本番では色紙、もしくはポストカードに書きます。習ったことを思い出しながらひと筆ずつ書き進めていく際の、心地良い緊張感がたまりません。落款に見立てたハンコを押したら完成。この日の記念に大切にお持ち帰りください。自宅に飾って日々眺めていれば、縁起文字の効果を発揮して運気を上げてくれるかもしれません。
仕上げにハンコを押すと作品全体が引き締まった印象に寄席文字を現代のライフスタイルに
寄席文字は近年、寄席の外でも使われる機会が増えているとか。開店祝いや祝宴に際して、縁起文字として色紙に思いをしたためて贈ると喜ばれるのだそうです。現代のライフスタイルにも浸透している寄席文字。本体験での学びを活かして、年賀状に大きくひと文字、寄席文字で干支を書いて送るのも良いでしょう。
かつて客寄せに力を発揮したという寄席文字は、どこに飾っても存在感を放って縁起が良いより目立つように、より魅力的に映るようにと先人たちが工夫を重ねて確立した、江戸時代がルーツのビラ字、さらにその先に完成された寄席文字の粋な世界。伝統を未来へつないでいこうとする職人の熱意がしみじみと心に染み渡ります。和の風情あふれる穏の座のお座敷で、心を落ち着けて筆を走らせ、味わい深いひとときを噛み締めてみませんか。